チカチカと点滅する視界が暗転するかと思ったその瞬間に、圧迫感が消えた。
一気に流れ込んできた空気に肺が驚き、酸素を取り込みたいのに、拒絶するように押し出してしまう。身体を跳ねさせながら咳き込んでいれば、腰のあたりに馬乗りになっていた轟が私を抱きかかえた。
「悪りぃ、圧迫し過ぎた……気分は?」
「……サイアク」
意識をおとすつもりが、寸前で躊躇ってしまったらしい。震える指先で口端からたれた唾液を拭い、そして何度も私の頬を撫でた。
まるで大切なおもちゃを、大事にしすぎて壊してしまった子どものようだ。眉尻を限界まで垂らした情けない表情をみていると、怒りの感情はみるみるうちに萎んでいき、戦闘を続ける気力まで失ってしまった。
身体が丈夫で良かった。あちこち痛むが、我慢できる程度だ。轟は自分のことのように苦しげに顔を歪めていた。潤んだ瞳を不安げに揺らす轟を安心させようと、吐き捨てるように感想を口にする。
「良い面構えになったね」
「ナマエもな」
「おかげさまでね」
頬の血を拭ってやれば、お返しにと言わんばかりに轟は私の口端の傷を舐めた。ビリビリと痺れるような痛みに肩を跳ねさせれば、その反応をみた轟は離れていこうとする。
お互いに全力でぶつかり合った結果なのだ。私だけがボロボロで、気遣われるなんて御免だ。
「やめないで」
一言そう伝えれば、轟は歯を当てる勢いで唇を寄せてきた。加減を知らない男だ。唇を薄く開いて、舌を迎え入れれば、轟は厚みのある舌で私の頬の内側をなぞった。
少し血の味がした。私も口内を切っていたが、もう慣れてしまっていた。きっといま感じたのは轟のものだ。右側のちょうど第二小臼歯のあたりにあった傷口を、舌先でほじくれば、轟の小さなうめき声が口づけの合間に漏れた。
他のことなど考えられず、只ひたすら相手を求め、そして轟から求められる。この瞬間は、あぁ生きているんだなと全身で感じる。程々にしておけば良いのに、まるで覚えたてのように、息苦しくなるくらいに口づけをした。
ようやく離れたのは、私が胸を大きく膨らましながら肩で呼吸をするようになってからだった。
「寒い」
「こっちで温める」
破裂したまま放置された水道管からあふれだした水が身体を濡らす。冷えた身体を反射的に震わせれば、轟が左側の個性をつかった。
「場所変えた方が良さそうだな。持ち上げるぞ」
片手で軽々と抱き上げるなんて馬鹿力にも程がある。とっさに頭を抱けば、轟は楽しそうに「前みえねぇ」といって笑った。
前髪をかきあげて晒された白い額にキスをすれば、くすぐったそうに轟は首をすくめた。小さく笑うたびに、彼の双眸を隙間なく縁どる睫毛が揺れた。
「ナマエからしてくれんの、珍しいな」
「嫌だった?」
「いや、すげぇ嬉しい」
顔中に降りそそぐキスを大人しく受け止めていた轟が口を開く。もしかすると鬱陶しかったかもしれない。そう思って確認すれば、轟はゆるゆると首を左右に振って否定した。へらっという擬音が相応しいほどに気の抜けた表情で笑った。
「俺もしてぇ」
そう言うと、轟は私をテーブルの上に座らせた。頬を指の腹で撫でた轟は、額に触れるだけのキスをした。私の動きをなぞっているようで、次に双眸に唇が触れた。
首裏に腕をまわしキスをねだれば、煽られてくれたのか何度も角度を変えながら噛み付くようなキスになっていった。
唇を押し当てたまま抱え上げられた為、カチンと歯が当たった。少し進んでから、今度は壁に押し付けられ、首筋を舐められる。舌が這う感覚にぞくりとして、轟の腰をゆるくホールドしていた太腿に力が入ってしまった。
身体を支えていた手が尻肉を揉み、割れ目に硬いモノが押し付けられた。何度か往復するように動かされ、悩ましげな息を漏らしてしまう。
「ベッドまで辿りつかないな」
寄り道ばかりをしているため一向にベッドルームに到着しない。軽い触れ合いも気持ち良いが、求めているのはもっと激しく深いものだ。
「ここでいい」
「痛い思いさせたくねぇから少し我慢してくれ」
ラックの上にでも押し倒して仕舞えばいいのに。白目に血走るほど興奮し切っているくせに、理性を手放さないでいるらしい。
もう一度腕に力を入れて、私の身体を持ち上げた轟はゆっくりと階段を登った。下半身を押し付けられたままの為、階段をのぼる度に違った刺激を与えてくる。落とされないようにとしがみつく力を強くすれば、轟は小さく笑った。
「立ったままシてるみてぇだな」
俗なことと無縁なのではと錯覚するほど、神聖さも感じさせる美しい顔立ちをしているのに、頭の中は年相応だったらしい。少しだけ安心してしまう。
時間をかけて、ようやくベッドルームに到着した。ゆっくりと降ろされたベッドの上はとてもフカフカしていて、全身を預けたくなった。
「手当……」
「いらない」
覆いかぶさることなく、救急箱を探しにいこうとする轟の腕を引き、ベッドに押し倒す。
「こういうの、そそらない?」
「……いや、そそる」
腰のあたりに跨りながら、ストリップショーのようにゆっくりと焦らすような手つきでボタンを外し、水を含んで重たくなったシャツの前を開いた。轟は喉仏を大きく上下させた。
「こんな傷だらけのカラダに興奮するなんて、優秀な下半身をお持ちで」
「誰にでもってわけじゃねぇ」
下半身の膨らみを撫でながら、揶揄うように笑えば、ムッとしたような表情をみせた。
「ナマエだからだろ」
腰骨を掴んできたと思えば、下から突き上げられるように揺さぶられる。衣類という隔たりがなければ、身体のナカを割り、奥を押し上げていたことだろう。
ナマエだからだ、なんて言葉をきいて鼻白む気持ちはあったが、馬鹿の一つ覚えのように、擬似的な行為をくり返す姿はどうしようもなく愛おしい。薄い唇をぐっと噛み締めて、溢れだそうとする欲望に耐えているようだった。
もどかしい。直接的な刺激が欲しくて、衣類を脱ごうと腰を浮かす。すると焦らされたと感じたのか、逃さないというように腰骨をつかむ手に力が込められた。右側に痛みが走る。
「馬鹿、個性でてる」
「……悪りぃ」
興奮のあまり左手から個性をもらしたらしかった。指摘するまで気付かなかったようで、自分の手と腰骨の位置に残った手のひらの痕を見比べ、驚愕の表情を浮かべた。
「興奮して個性漏らすってドウテー?」
「……童貞じゃねぇ」
「知ってるよ」
コントロールを間違えるだなんて、個性が発現したての子どものようだ。いや子どものような無垢さと可愛さは存在しないのだが。
くすくすと笑いながら、童貞のようだと揶揄えば、轟はムスッとした。負傷させた手前、不機嫌さを前面には出さなかったようだが、それでも唇はつんと尖っていたし、拗ねたような声色だった。
童貞ではないことは私が一番よく知っているはずだ。セックスを覚えたての高校生のように、快感を求めてガツガツと独りよがりに腰を振る彼に、何度抱き潰されただろうか。加減ができないのは、いまに始まったことではない。
しかし個性をもらしたことは今までにない。戦闘のあとだから昂っているのだろうか。
「そんなつもりじゃなかった。頼む……嫌いになんないで」
「本当ワガママ」
のそのそと上体を起こそうとした気配を感じ、降りてやろうと腰を浮かせば、身体を引き寄せられた。立ち膝の状態はすこしつらくて、轟の太腿に尻をつける。肩口にぐりぐりと額を擦り付け、弱々しい声で嫌いにならないでくれと呟く轟の背を撫でる。
結婚を考えるほど特別な存在がありながら、私の特別でありたいという。嫌味を言ってやろうと思ったのに、口からは思った以上に柔らかい声が出た。
「簡単に嫌いになれたらこんなに困ってない。それにさっきのも、服脱ごうとしただけ」
「……どっか行っちまうのかと思った。もう何処にも行かないでくれ」
私以外に目移りをするどうしようもない男だと見放すことができたらどんなに楽か。彼が敵と繋がっていると知った時も、見放すことはできなくて、轟が誰かを傷つけてしまう前に自らの手で止めるんだと決意した。
私一人で敵う相手ではない。他ヒーローの協力を仰ぐべきだった。しかし、何かの間違いであればと期待して、一人で彼に会うことにした。もちろん彼が本当に敵サイドだった場合、格上相手にただで済むとは思っていなかった。きっと死ぬことになる。もしそうなった時には道連れにする覚悟はあった。
人を殺すだなんて人倫に反しているし、史上最悪のヒーローとして歴史に名を刻むことになるかもしれない。人倫だとか名声だとか、そんなものどうでも良くなるくらい、轟を特別に思っていたのだろう。
殺されかけても、このように思っているのだ。私の執念を知ったならば、轟はどのような表情をするだろうか。
恋には賞味期限がある。その期限が切れる正確な期間は誰も知らないが、きっと長くはない。恋の終わり方はきっと三つある。賞味期限が切れる前に食らい尽くしてしまうか、賞味期限が切れたからと棄ててしまうか、賞味期限を切らしてもなお保ち続けて腐らせるか。
私は食らい尽くすことも、捨てることもできなかった。心の奥に大切にしまい込んでいた恋は、陽の光を浴びることもなく、腐ってしまったのだろうか。
まぁ腐って、煌めきを失いくすんでいようが、見る影もなくどろどろになっていようが何だって良い。食らって、身体の一部にしてしまえば良いだけの話だ。
いつからこのような腑抜けになったのか。欲しいものを手に入れるためなら何でもする。ヒーローへの道が閉ざされそうになった時も、親、個性、自分自身──全てを利用して乗り越え、夢を掴んだ。それが私だっただろう。
胸なんてただの脂肪の塊だ。脂肪と筋肉では重力が違うのだ。ウエイトも、スピードも、パワーだって負けていない。轟の隣という地位をかけた椅子取りゲームでは、巨乳のアイドルに負ける気がしない。もう座られてしまったというならば、体当たりでもかましてその席を奪い取れば良い。
エンデヴァーが公認しているからなんだ。欲しいものを手に入れる為ならば、全て捻じ伏せろ──凶悪犯のような悪どい表情をした友人の顔が浮かんだ。
史上最悪のヒーローになることはどうやら回避したようだが、女に最も嫌われるオンナになることは避けようがないようだ。
「どこにも行かせない」
私はもうどこにも行く気がないし、轟をどこかに行かせるつもりもない。そんな重い告白を、轟はとても幸せそうな表情で聞いていた。